思想生活

科学技術の進歩は良い事だが、人間の能力を弱める弊害や副作用もある

思想

こんにちは! 健史です。

現代社会では、自動車や洗濯機、テレビ、掃除機などの家電製品、スマホなど、技術の進歩に伴って多くの便利なものが開発され生活の中で利用されています。

私もその恩恵にあずかっています。

便利なものが開発されるのは良いことですが、一方で便利なものに頼り過ぎていると人間が備え持っている能力・機能が弱くなっていると思うことがあります。

私の体に起きたことや見聞きしたことから、便利になることに伴う弊害や副作用、対応していることなど綴ります。

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科学技術の進歩による恩恵

私の主観によるものですが、分類してみました。

生産性、スピード、安全性を高めてくれるもの

省人化、省力化、災害現場などで危険物を処理したり爆破したり危険回避するロボットなどの機械です。

肉体労働や作業を機械が人間の代わりに行うものです。

自動車や電車なども、昔は徒歩や馬車であった移動のスピードを速めてくれます。

事例を紹介します。

トウモロコシの刈り取り

私の家の周りには、春から夏にかけて牛のエサとなるトウモロコシが栽培されます。

目の前の畑は約3反[1反(たん)は、10アール、300坪、約990㎡(31.5m×31.5m)]あります。

8月中旬に大型トラクタが来てトウモロコシの刈り取りと粉砕を同時に行うのですが、1時間かからずに終わります。

刈り取りと同時に粉砕したトウモロコシは、トラクタと並走するトラックの荷台に積まれていきます。

トラックは2台が交互に出入りして保管場所まで運びますが、運搬する待ち時間が無ければ30~45分で終わるでしょう。

これを人間の手で行うとしたら、大変な時間が掛かります。

田畑を耕すことも種を植えることも同様で、わずかな時間でできています。

余談ですが、このトウモロコシの刈り取り作業、その刈り取る音とスピードは見ていて爽快です。

2列一緒に刈り取る小さな口に、するすると吸いこまれていきます。

刈り取り終えた畑は、目の前がひらけ風通しも良くなったように感じます。

稲作

私が小学校低学年のころまでは、田植えはすべて手作業でした。手伝った記憶が僅かに残っています。

種をまいておき30~40㎝位に育てた苗代から、手で根から抜き取り、縄などの紐で括るのです。

それを水を張り均した田に放り投げておきます。

そして、苗を植える間隔の印のついた紐を田の端から端へ張り、放り投げておいた苗を手にとり括ってあった縄をほどき、一株一株手で植えていきます。

1列植え終わったら、張った紐をずらしていきます。

3反位の田の場合、植えるだけでも大人が4~5人でやっても1日以上かかったと記憶しています。

しかも、腰を曲げて植えるのですから相当な労力です。

お昼ご飯も田の畔でおにぎりを食べた記憶あります。

まぁそれはそれで懐かしくもあり、子供ながらに「たいへんな作業だったなぁ~」と思い出します。

それが田植え機であれば、2人で1日掛からずに終わります。大きな田植え機であれば半日かからずに終わります。

1人は田植え機を操作して植える人、もう1人は苗箱を手渡す人。

苗箱(58cm×28cm)は重く、手渡したり機械にセットするのに力が必要です。

ですが、それらを除けば、前者は機械を操作する、後者は待ち時間もあり、手植えのような労力は要りません。

刈り取りも同様です。

格段の生産性とスピードの向上です。

コンピュータによる集計や検索などの処理

例えばExcelなどの表計算ソフトです。

入力したデータを集計するのは一瞬です。

しかも多種多様な集計を僅かな操作でできます。

コンピュータが今のように一般的でない紙の時代では、そろばんや電卓で集計し、テストであれば平均点を計算したり。

計算センターの時代では、紙カードなどにパンチしたものを読み込ませていました。

紙カードなどにパンチするだけでも専用の機械が必要でしたし、パンチする専任の方もいました。

それが今ではパソコンで自前でできます。

大量のデータの中から検索したり集計することも、更にプログラミング言語を学べば飛躍的にスピード・作業の質を向上できます。

しかも、プログラミング言語も簡単な内容であれば専門の学校に行かなくてもインターネットで学習・実践できます。

プログラミング言語を習得することで更に発想も広がります。

「手作業でやっていた面倒な作業も自動化できるのではないか」と、やってみると実現できることが多々あります。

判断や行動を導くのに役立つもの

知的労働や作業を行う人工知能(以後、AIと表記)やカーナビゲーション(以後、カーナビと表記)などです。


AIは、医療現場での診断補助、コールセンターでの問題解決補助に活用されており、その効果は大きいようです。

人間では、人それぞれの知識・経験を含む能力に差があり、「忘れる」ということが起きたり、その日の体調によっても正確な判断処理ができない場合もあります。

判断業務の品質を一定に保つことが、人間にはできません。

AIであれば、人間の能力差などの問題はなく、不満をいうこともなく一定品質の業務を行ってくれます。


また、カーナビやスマホなどの位置情報システムは、移動する場合の経路を正確に示してくれるので、移動時間や燃料の削減に役立ちます。

体の弱いところを補強してくれるもの

視力、聴力、筋力の弱いことを補い、生活や労働の問題を軽減、解消してくれるもので、メガネ、補聴器、車いすなどです。

最近では、重い荷物を持ち上げる作業用に、体に装着するパワーアシストスーツが開発され、腰痛の防止や負荷や疲労の軽減に役立っています。

人間の能力や機能への弊害や副作用

上記で書いたものの他、多々人間の生活や仕事を便利にしてくれるものが開発されています。

ですが、そうしたものに頼り過ぎていると、人間が本来生まれ持っている?育まれてきた?能力というか機能が弱体化する場合もあります。

例えばカーナビです。

私も首都圏など複雑かつ初めて行くところでは多いに利用しています。


ゴールデンウィークやお盆の時、テレビ番組で「高速道路と一般動、どちらが早いか」という特集があります。

番組では、カーナビを使わないルールになっています。

道を間違えたり渋滞回避から経路を変更するのですが、高速を利用していて下りるべきインターを地図で確認・認識しているにも関わらず、通り過ごしてしまいます。

助手席でサポート役の家族がいるにも関わらずです。

カーナビであれば、高速を下りる少し前から案内が開始され、インターチェンジに入るイメージまでモニターに表示され、安心かつ間違えなく下りることができます。

それを見て感じるのは「カーナビに頼っていることにより、俯瞰する能力・機能、土地勘、認識力・判断力・対応力といったものが弱くなっている」のではないかということです。

“カーナビを使っていなかったら”といった比較はできませんが、カーナビを使っていない時であれば、通り過ごしてしまうといったことは無かったのではないかと思うわけです。


“どこで降りるか”なんてことを考えながら運転することは不要で、運転に集中でき安全性を向上させているといった考えもあるでしょう。

カーナビが壊れるといったことも稀ですから、カーナビに頼る運転で良いとも思いますが。

 
もうひとつは、肉体的な衰えです。

現代は車社会で、私も車を使っています。

電車やバスといった交通機関が発達していない地域であることもあり、どうしても車を使わないと通勤、買い物などでは用が足りません。

一方で足腰については、老年になっても自分の力で歩ける機能を維持したいものです。

ですが、どうしても車を使ってばかりいるために歩くことが少なくなり足腰が弱くなります。


光の届かない深海に住む魚は、目が退化すると言われますが、使わないでいると進化の過程で能力・機能が減退・消失していきます。
 
上記カーナビを使わないことによるミスや筋力の衰えは、進化の縮図が起きているように思います。

能力や機能を維持するために行っていること

階段を使う

肉体的には老年になっても、便利なものが開発されて人間の機能を代替するものが開発されても、私は自分の力で歩くことを維持したいと思っています。

そのため、普段は歩くことを厭(いと)わず、動くようにしています。

デパートや駅などでは、エスカレータは使わず、なるべく階段を使います。

何十階もある高層ビルのエレベータを使うのとは異なり、エスカレータであれば歩行する速度は変わりません。

むしろ混んでいる場合は、歩行の方が早い場合があります。

カーナビに頼らず地図をインプットする

初めて行く、特に地方の土地の場合には、頭の中に地図をインプットして、カーナビに頼らない、もしくは、補助してくれるものとして使っています。

カーナビだけに頼っていくのは、“つまらない”と言っては言い過ぎですが、”面白くない”と思うことがあります。

行く前から地図上で経路を確認すると、あれやこれやと想像も膨らみますし、行く道中も楽しみになります。

目的地までの土地も、時には歴史や文化が残っていたり、道路や家のつくりが異なっていたり、山河の景色も楽しみたいのです。

時間があれば、時間を確保しつつ、高速道路は使わず、一般道で行きたい思いでいます。

家族にとっては迷惑なことで「高速道路使ってヨ!」と思っているようですが。


高速道路は信号が無く便利で爽快ですが、景色が高速で流れてしまい、単調で面白くないと思うことがあります。

時には高速道路を走る1分、5分、10分・・・の時間が"長い!"と感じることがあります。

景色に加え、ハンドルを回すことが少なくアクセルも踏みっぱなしという単調な操作も影響していると思います。

一般道は高速道路と比べゆっくりとしたスピードで走行するため、多くの物を目にでき、新しい発見もあります。

決して“よそ見運転”で走行しているわけではありません。

運転に集中していますが、それでも自然と目に飛び込んできます。

そうすると感覚が刺激を受け、土地勘みたいなものが維持、向上できるように思います。


上記以外にも、ちょっとした計算では電卓は確認用に利用する、頻繁に使う電話番号は覚えてしまう(私は覚えられてしまう)といったことをしています。

最後に

農業や工業の分野で開発される機械、自動車や電車などは、人間の能力をはるかに超える作業を一定の品質・生産性で行ってくれます。

一方で、機械に頼り過ぎてしまうと、頭脳・筋力とも弱まることもあります。

無駄に使う、例えば重いものを持ち上げる必要が全く無いのにパワーアシストスーツを使用するのは、筋力を弱め逆効果になるでしょう。

科学技術の進歩により開発される便利なもののうち個人で使うものは、弱いところがあれば補い、特段弱いところがないのであれば維持して質やスピードを高めてくれてもの、人間が心身ともに健康で生きていく上で役立つものとして使っていくことが必要と考えています。

参考にして頂ければと思います。

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